REVIEW

『まよわないために』  text: 野口 卓海

「まよわないために」展初日から、会場にて配布しておりました当展ディレクター野口さんのテキストを公開いたします。ぜひご一読くださいませ。
こちらから内容を追補されたテキストが、あらためて当展会期の後半に発表される予定です。続編もぜひご期待ください。

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表現の地平が、もう既に荒野と成り果てていること。そして、その地平から大文字の目的地が失われていること。そういった絶望的な状況においてなお、現代美術の文脈の中で表現活動を続けている自分と同世代の作家達を眺めていた私は、彼らがその荒野をどのようにサヴァイブするのか、その方法にこそ興味があった。そして、作品や作家個人に付随する幾つもの「主題(あるいは”主題めいたもの”)」における相似・相違ではなく、その「方法」や「態度」にこそ私たちの世代が語りうる範囲が唯一残されているのではないか―。凡そそのような自分の仮説が実質的な空間の中で展開されたときに、どのような効果を発揮するのか確かめてみたい、という個人的な欲求をスタート地点としてこの展覧会の企画を行った。つまりはこの企画自体が、私にとっての「まよわないため」の一方法だったのかもしれない。

本展覧会の参加作家四組五名と企画者である私は、全員が1983年~1986年生まれである。この世代が思春期までに経験した幾つかの社会的動向として、湾岸戦争・阪神大震災・オウムの地下鉄サリン事件・同年代による幾つかの大きな少年犯罪が挙げられるだろうか。それらのニュースのほとんどを、子供だった私たちはテレビで目撃していた。因果関係や(一定の)事実を元に書き起こされた文章からではなく、インパクトを重視した、時に脈絡すらない短い映像の断片による共通した記憶。また、恐らく非常に重要な共通の体験として、PC・インターネット・携帯電話との距離感の変遷もあるだろう。私たちの世代は、それらがまだ全く普及していなかった生活も確かに体験したが、最も多感な中学生・高校生の時分にそれらが急速に(身体的にも)浸透していくさまを目撃・体感し、そしてそれらを「さも当然のこと」のように受け入れた唯一の世代だろう。世界がデジタルへと複製されていく過程も実感を伴って共有していたし、世界の上っ面に複製されたそのもう一つの「世界」が、急激な過度の圧縮でべこべことへこみ、ゆがみと自己修復を繰り返し絶えず蠢動している事も理解している。先に挙げた幾つかの社会的動向は、一方通行かつ単一のメディアから与えられた受動的で非常に強い影響という共通体験だったが、次に体験したテクノロジーの進化が「世界」の信憑性自体を個々人に問い直しはじめたわけだ。もしかすると、私たちはスキゾ化(分裂化)※1を強いられた初めての世代かもしれない。そして、それさえも呼吸するように「さも当然のこと」と受け入れたのだと思う。

表現の地平では、恐らくそういった社会情勢より前に荒野化が進み、集団で目指すべきような大いなる目的地は失われていた。美醜・善悪に代表されるような二項対立の大きな物語が次々と終わりを告げ、その後に訪れた再生産・再消費の延々たる反復のはじまりが80年代前半。マイク・ビドロに代表されるようなシミュレーショニズムも、最早90年代には古臭くなっていたはずだ。過去の偉大な「主題」たちの墓を暴いてまで手にした動向さえ、その加速度的に短くなる消費期限から逃れられず古くなってしまう現実。本テキストの焦点となる、今回私が取り上げた80年代生れの作家たちは、そういった美術史的な現実を思い知る中で、新旧といった常に二律背反する事柄・問題の重要度を無意識に引き下げているのかもしれない。これまでの現代美術の文脈では、常に「YES/NO」を突きつけられてきたような幾つもの主題※2に対して、常に一貫した答えを作品の中で用意しているわけではない。むしろ、それぞれの作品や活動の中で扱われる主題は変化し、時には一つの作品の中でさえ局所的に主題の焦点が動いている。

では次に、それらの具体的な発露の指摘を中心とし、各作家への簡単な接近を試みる。結束バンドによる立体作品が特徴的な國政聡志は、染織をその出自とし活動している美術作家である。國政の作品を簡略化して幾つかの要素に解体したならば、そこには確かに「染織」からの強い影響が見て取れるだろう。用いられる素材はしばしば染料で染められ、それらを規則的に反復させ形作っていく製作過程は、「織る」という行為の根源的な条件を私的に解釈した一つの結果だ。しかし、むしろ國政のスタイルは「染織」だけに留まらず、単純な素材や現象から物理的なエネルギーだけをそっと盗み出すような発想にこそ根幹が潜んでいる。ゆえに、今回のアクリル板を用いたインスタレーション「弧」のように、他の作品で扱っていた「染織」にまつわる幾つかの要素をオフにできるのだ。

今回唯一の平面作家である田中秀介の作品は、一見しただけでは「いわゆるオーソドックスな絵画」に分類されるかもしれない。しかし、画面の中で巻き起こっている幾つもの局所的な主題の変遷は、明らかに現代作家の振る舞いといえる。例えば、ある部分では物質的な表情をしている絵具が同一平面内で突如獲得する描画・リアリティ・イリュージョン、前景・後景・遠近法といった空間に対する態度※3、あるいは物語の有無―、そういった”絵画”という文脈が患ってきた多くの問題に対して、田中は個々の作品の中で取り上げる範囲を微妙に変化させながら、その一枚の絵に対する最良の対応を探している。一見しただけでは非常に重たい絵画のようでありながら、紐解いていくと少しコミカルな部分や一般化可能で共有しやすい言葉が次々と出てくる理由も、要所要所で表現の重心をずらし続けるような描き方の多様性が、豊かな軽やかさを生んでいるからに違いない。

また、「個々の作品に対して最良の対応を探す」というスタイルは、乃村拓郎の製作過程からも感じられる。乃村は様々な素材や技法からもアプローチを試みるため、よりそのスタイルが明確に表出しているだろうか。また、出自である彫刻を制作の根幹としながら、デザインや工芸の持つ作法・テクスチャーからの着想を柔軟に取り入れることで、上記のような素材・技法からのアプローチとは別の道筋も獲得している。また、そういった工芸・建築の道筋から取り込まれてきたであろう、しばしばたち現れる日本的なるイメージは、具体的な引用と言うよりもむしろ深沢直人が提唱していた「スーパーノーマル※4」を想起させるだろう。また、作家の恣意的で直接的な加工の痕跡よりも、素材や技法から既に与えられている表情を重視する乃村の姿勢は、展示する空間とその場の光―つまり「光景」全体を借りるような展示方法にも通底しているだろう。

コンサートを主な発表の場としている三木祐子+金崎亮太は、サウンドインスタレーションとして今回展示している。ピアノと電子音楽、身体性・質感・歴史といった非常に多くの相違がある二つの音による調和と異化は、めまぐるしくその関係が変化していくのが特徴的だ。調性や響きの価値、また二つの音の主従関係、楽音と雑音のバランスといった大切な要素が、会話のようにそれぞれ立場を移動させながら楽曲は展開していく。また、狭い展示空間の中で立体音響を体感するため、音から想起される広がりと現実空間との隔たりが、普段は視覚偏重の世界にあって忘れがちな「聴覚」のもつ情報の確かな量感を再認識させる。それは、彼らが定期的なコンサート「根底の響きを探って」で抵触している私たちの根源的な身体感覚を刺激するだろう。また、金崎が「人間の声」を電子音の素材としている事も、こういった身体感覚への介入を可能にしている大きな理由のひとつとして挙げておく。

さて、ここまで個々の作家への具体的な接近を試みたが、彼ら四組はそれぞれに全く違う技法・メディアを採用しているにも関わらず、作品へと至る道程には幾つかのリンクが見て取れた。大きな単一の問題に対する「YES/NO」だけではなく、局所的な「ON/OFF」の総体によって作品が成り立ち、そしてその個々のスイッチは作品毎に(触れるか触れないかさえ)切り替え可能だということ。強いられたスキゾ化さえも、いつしか「当然のこと」になっていた私たちの世代が、目的地の失われた荒野ですら絶望せずに少しずつ歩み続けるための、それが唯一の方法なのかもしれない。そして、個々のスイッチのつらなりや模様こそが、ヘンゼルとグレーテルが必死で落としたパンくずであり、現代美術の迷宮でまよわないためのアリアドネの糸なのだ。表現の地平が果てしなく「どこへでも行ける」なんて言葉は、もう全く必要ではなくなった。むしろ、私たちはそれぞれに「どこから来たのか」を時折確認し、その足跡自体を唯一の命綱としなければならない。大いなる目的地が失われた今、次のわずかな一歩にさえ躊躇いや戸惑いが生じるが、少なくとも現在地までたどり着いた足跡からは、明確ではなくともおぼろげな方角ぐらいは読み取れるのだから。

2014年1月11日 野口 卓海

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※1:このスキゾ化を強いたITの急激な変遷が、スキゾ・キッズをパラノ化する為の装置として浅田彰が「パラノ・ドライブ」と揶揄した「資本主義社会」自体が招いた結果であることも非常に興味深い。パラノ・ドライブが我々にスキゾ化を強いる世界は、果たして安定した球形を保つことが可能なのか。

※2:例えば、「絵画は物語を描くべきか」「イリュージョンの是非」「盗用・流用」といった現代美術の内部的な問題から、戦争・政治・性・労働といった社会問題まで。

※3:近作では空間のゆがみに伴って、時間のゆがみも異時同図法的に描かれている。日本美術の絵巻、漫画のコマ割、アニメーション、恐らくそういった分野からの影響もあるだろう。

※4:「そのものが落ち着くべきふさわしい形」。深沢が提唱した「スーパーノーマル」は、主に現代の日用品を射程としている。


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